2018年7月22日日曜日

墓のない女 [著]アシア・ジェバール [訳]持田明子

 アルジェリアがフランスから1962年、独立を果たすまでには激しい闘いがあった。「ゲリラの母」と呼ばれたアルジェリア女性ズリハの生涯を、70年代半ばに女性の映像作家がたどる設定。裕福な農家に生まれて開明的な父のもとで教育を受け、ベールなしで街を歩く強い性格。3度の結婚で4人の子どもを持つが、独立運動に身を投じて殺された3人目の夫の遺志を継ぎ、女たちのネットワークをつくって闘争を支援、自らも若いゲリラたちと基地にこもった。フランス軍に虐殺されたとみられるが、遺体も見つからない。2人の娘や義妹、親しい友人たちと、ズリハ自身のモノローグが重層的に一人の女性と時代、社会を物語っていく。
    ◇
 藤原書店・2730円

2018年7月21日土曜日

アラブ革命はなぜ起きたか―デモグラフィーとデモクラシー [著]エマニュエル・トッド [訳]石崎晴己

■普遍へ文明が接近する過渡期

 大学に入学したての頃、文化人類学者、米山俊直の講義を聴いて目を見開かされた。人間のあり方は環境からの制約と、その中で発生した文化的な仕組みによって規定されている。受験勉強で乾ききった心に、世界の新しい見方は湧水(ゆうすい)のようにしみわたった。それは今にして思えば梅棹忠夫に代表される京都学派の流れをくんだものだった。
 ソ連崩壊、米国衰退を予言していたとして世評に名高いトッドの著作をその大部さゆえに読むことができないでいた。彼のインタビューで構成されたこのハンディな本は、私を含め門外漢の読者にとって格好の入門書である。
 彼の基礎は普遍主義にある。人間は自由と平等を希求する。しかし様々な文化的な桎梏(しっこく)がある。まずは家族制度。すべてが父から長男に引き継がれる権威主義的な直系家族にあっては、自由と平等の意識が育まれない。その中で人を変えてゆくのはデモグラフィック(人口動態的)な要因、すなわち識字率の上昇や出生率の低下である。情報の共有と自己の意識化。
 これはかつて西欧で、旧ソ連で起きたことであり、今、アラブ世界で進行していることでもある。彼は、イスラム原理主義によるテロも、チュニジア、エジプト、リビアで生じたアラブ革命も、普遍への過渡期の一形態であるとみる。彼らはまもなく近代化し、穏健化していくと。
 文明は衝突するのではなく接近している。これは紛れもなく、かつて米山が語ってくれたレビストロースやアイブルアイベスフェルトに連なる知の系譜である。文明の変遷を、経済や宗教の対立として見るのではなく、文化人類学的な生命史として見る。
 文明の生態史観とも呼びうるそれは、唯物史観に対する鮮やかなアンチテーゼなのだ。久しぶりに大学初年度の好奇心を思い出した。訳者による親切な付記と解説も大いに参考となる。
    ◇
 藤原書店・2100円/Emmanuel Todd 51年生まれ。歴史人口学者、家族人類学者。著書多数。

2018年7月20日金曜日

裸のフクシマ 原発30km圏内で暮らす [著]たくきよしみつ

■平明さが伝える静かな怒り

 以前からこの著者には密(ひそ)かに着目していた。PCは買ったままの設定で使うな。文章は、おせっかいなワープロソフトでなく、シンプルなエディターで書こう。mp3ファイルの音は悪くない。デジカメに1000万画素も不要。私たちが、言われるままにとっぷり漬かっているテクノロジーのあり方を、果敢かつ慧眼(けいがん)をもって批評する姿勢に好感が持てた。なので本書を見つけた時、なぜ、と思った。
 実は、著者は福島出身。県内の川内村に土地を得て、定住しはじめたところだった。そこに地震が来た。彼の家は原発から25キロ地点。ネットも電話も不通になった。じわじわと不安が深まる。福島中央テレビが衝撃的な映像を流した。1号機が爆発。しかしその意味を教えてくれるものは誰一人いない。避難を決意。必要最低限のものを車に積んで出発した。
 翌日、川崎に残してあった仕事場に到着。ネットなどを総動員して情報収集を始めた。驚くべき状況が次々と明らかになっていく。3月26日、彼はガソリン、支援物資、線量計を持って川内村を目指した。途中から線量計の警告音が鳴りっぱなしになった。
 政府や自治体の機能不全ぶりを鋭く批判すると同時に、福島の人々はどうしているのか、何を考えているのかを克明に記していく。仮設住宅に移ることを拒否し、金のかからない集団避難所を出ようとしない人たち、三食昼寝つきに加えて温泉まで入り放題の避難生活を享受する人々、あるいはパチンコ店の盛況ぶりをも赤裸々に記述する。一方で、この山里に住み着き、ここに留(とど)まることを選んだ人々の、再生への小さな一歩を活写する。著者の知人の農家は、自治体の統制に逆らって、今年も作付けに向けて田んぼに水を入れた。技術評論で培った冷静さと平明さ、そして静かな怒りに裏打ちされた正義感とでも呼びうる公平さが本書の持ち味である。
    ◇
 講談社・1680円/鐸木能光 55年生まれ。小説、デジタル文化論など執筆。『日本のルールは間違いだらけ』ほか。

2018年7月19日木曜日

私自身であろうとする衝動―関東大震災から大戦前夜における芸術運動とコミュニティ [著]倉数茂

■「美的アナキズム」が問うもの

 旧来の共同体が崩壊し、個が浮遊する今日。社会の流動化によって、あらゆる領域の自明性が喪失している。そんな時代には、なぜ生きているのかわからないという事態が生じ、人は「根拠なくただ生きているだけ」という状況に陥る。「私という生」が裸のまま、世界にさらされるのだ。
 著者は言う。「この裸の『生』に意味と文脈を回復するために、あらためて生を思考すること、生から思考することが必要なのである」
 著者が注目するのは、関東大震災前後の日本。明治の社会的桎梏(しっこく)から解放され、自由で創造的な「私」の創出が期待された時代だ。有島武郎に代表される「生の解放」の潮流を、著者は「美的アナキズム」と捉える。美的アナキストは、本能、欲望、衝動を絶対的に肯定し、自己を縛る規範を拒否する。そして、自己の内部に生という能動的自然を見いだし、崇拝する。
 「私という生」を超えるものは存在しない。いかなる超越も認めない。当然、そのような思想は国家の法権力と抵触する。現に「生の拡充の中に生の至上の美を見る」と言った大杉栄は、葬り去られた。
 しかし、美的アナキストは国家を超えた連帯を夢見る。自律した個人同士の絆こそが社会体を産出し、生を解放する。内面的な自己の解放と抑圧された人たちの政治的解放が、共に「生の拡張」「自己表現」として一致するのだ。
 ここにロマン主義的アソシエーショニズムが誕生する。宮沢賢治や柳宗悦は「ともに働き、ともに芸術活動に打ち込むことで、人々がひとつになれる」と考えた。この延長に、著者は保田與重郎の文学と超国家主義を定置する。
 秩序に保護されず、規範の底が抜けた「不安」を、「生の解放」で超克できるか。美的アナキストの系譜が、日本浪漫派へと流れ込むアイロニーをどう捉えるべきか。問いは時を経て、今の日本を突き刺している。
    ◇
 以文社・2940円 くらかず・しげる 69年生まれ。小説作品に『黒揚羽の夏』。

2018年7月18日水曜日

脱原発「異論」 [著]市田良彦ほか

 脱原発ではエネルギー危機になるとか経済がたちゆかない、という「異論」ではない。原発に批判的であり、さまざまな社会運動にコミットしてきた40代から60代の5人の論者による、脱原発運動の思想的検証の書。脱原発運動は内部の議論を避けているのではないか、「反原発」と「脱原発」の違いは何か、反原発は「反資本主義」へ結びつくか、そんな討議が交わされる。
 しかし、決して団塊オヤジの昔語りではない。全共闘世代が「タネが蒔(ま)ける土壌を荒らしてきた」という自己批判もある。反論もあろうが、本書あとがきにあるように「議論の『厚み』と『蓄積』が、運動と組織には必要だ」ということに間違いはないだろう。
    ◇
 作品社・1890円

2018年7月17日火曜日

横浜事件・再審裁判とは何だったのか―権力犯罪・虚構の解明に挑んだ24年 [著]大川隆司、佐藤博史、橋本進

■戦時下日本の警察・司法を裁く

 「免訴」
 広辞苑を引くと、「刑罰権の内容を実現する利益と必要がない場合、すなわち……犯罪後刑が廃止されたとき……に言い渡される手続打切りの裁判」とある。
 戦時下、治安維持法違反を理由に、約90人(氏名未確認を含む)の言論・出版関係者らが神奈川県の特高警察によって検挙された。
 獄死者も出したこの大規模な思想・言論弾圧事件「横浜事件」は1986年から2010年までの24年間、4次にわたる再審裁判をへて「免訴」が言い渡された。
 本書は、この再審裁判に携わった弁護士、ジャーナリストが、事件の構造と再審裁判の構造を分析的に描き出し、支援運動の経過をたどる。
 なかでも第三章「横浜事件の再審裁判は何を求め、何を勝ち取ったのか」(佐藤博史執筆)は、複雑に展開した再審の過程において、主張の力点がどう変化し、その結果、どんな判決が得られたのかを明快に解いて圧巻だ。刑事裁判の進展をたどる乾いた叙述のなかに、「スリリング」な知的感興をおぼえた。
 裁判所は最終的に「警察、検察及び裁判の各機関の故意・過失は総じて見ると重大であったと言わざるを得ない」と述べて、事件が権力による犯罪だったことを認めた。
 言い換えると、かつての「思想犯たち」が、この再審裁判を通じて戦時下日本の警察・司法を裁き、「有罪」判決を勝ち取ったということになろう。著者たちが求めたのは「免訴」ではなく「無罪」だった。しかし、最後は判決を「実質無罪」と評価する。
 横浜事件の始まりから、戦後早い時期に行われた元特高警察官に対する裁判までの記録を集成した『ドキュメント横浜事件』と、再審裁判の記録をまとめた『全記録 横浜事件・再審裁判』の二つの大著が合わせて刊行された。ペンの自由にかける執念が結実させた記念碑的出版である。
    ◇
 高文研・1575円/おおかわ・たかし 弁護士▽さとう・ひろし 弁護士▽はしもと・すすむ 元中央公論編集次長。

2018年7月16日月曜日

私が愛した東京電力―福島第一原発の保守管理者として [著]蓮池透

■原発の「自滅」を在職中に確信

 東日本大震災の発生以降、「東京電力」の名を見聞きしない日は一日もない。新聞もテレビもこの会社を主語とするニュースを連日伝えてきた。にもかかわらず、東京電力とはどんな会社なのか、もう一つよくわからない。靴の下から足をかくかのような感じがある。それは、そこに働く人の肉声がほとんど聞こえてこないからだろう。
 本書は、東電に32年間勤務した元社員による「東電体験記」。東電の内情を語る貴重な証言だ。
 著者によると、福島第一原発に勤務していた際、独身寮の朝食メニューは毎日、同じだった。ご飯、おしんこ、生卵、納豆。これを変えようとすると反対された。値段が上がるから嫌だ、という人が多かったという。
 水力、火力、送電、変電、配電などの部門と原子力部門との間には、人事交流がほとんどなかった。原子力部門で働く社員にはパイオニアのプライドがあり、「原子力なんて、(外国から)丸ごと買って来たもんじゃないか」とみる他部門の社員との間に意識のギャップがあった。
 画一性と、セクショナリズムと。しかし、それは何も東電だけのことではない。多くの会社に大なり小なり、同じようなことがある。つまり、東電は「私たち」と異なる特別の存在なのではなく、「私たち」と地続きの存在、あるいは「私たち」自身なのかもしれない。
 「このままいけば原発は自滅する」と著者は在職中から考えてきた。高レベル放射性廃棄物の最終処分場が設置できない以上、原発は「自滅」の道を歩むしかない、と。
 ただ、本書を読む限り、在職中に著者が自分の考えを社内で語った形跡はない。語る環境がなかったのだろう。しかし、もし東電に「言論の自由」があれば、今日の事態は避けられたのではないか。日本の会社にそれを求めるのは、そも無理なのだろうか。
    ◇
 かもがわ出版・1575円/はすいけ・とおる 55年生まれ。東京電力で原子燃料サイクル部部長など。09年に退社。

2018年7月15日日曜日

震災と鉄道 [著]原武史

 ヨーロッパでは、教会や広場といった公共的空間が近代の市民社会を育んだ。日本においてその役割を果たしたものが駅であり、鉄道の車内であったとする著者は、「鉄学者」とも呼ばれる鉄道ファンの政治思想史学者。鉄道の公共性と社会的使命を重く見て、JR東日本の震災対応を厳しく批判する。首都圏で当日の運行を打ち切った判断は正しかったか、8カ月以上経っても復旧のめどすら立たない被災地のローカル線はこのまま切り捨てられようとしているのではないか。競合相手が少なく地域独占に近い同社は「(利用者のニーズに)信じられないほど鈍感」で、その企業体質は「東京電力に似ているところがある」との訴えが熱い。
    ◇
 朝日新書・798円

2018年7月14日土曜日

沖縄の戦後思想を考える [著]鹿野政直

 普天間問題をはじめとする「沖縄の呻吟(しんぎん)」。それは少なくとも1945年の沖縄戦以来の根をもっている、と日本近現代史・思想史を専攻する著者はいう。
 敗戦から72年の復帰までを「『占領』という檻(おり)のなか」ととらえ、沖縄戦の凝視から、占領を撃つ思想、復帰運動と反復帰の思想をたどる。復帰以降は「『日本』という枠のなか」と位置づけ、「沖縄らしさ」がもてはやされた80年代を経て、教科書検定や基地問題で復帰そのものが問い直される過程を描いた。沖縄の人びとがこだわるところに「できるだけ耳をすませ、その声を聴きとろうとし」、それに懸命に応えようとする。本書のような姿勢こそが本土に求められている。
    ◇
 岩波書店・2520円

2018年7月13日金曜日

石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力 [著]勝見明

 「キュレーション」は美術館や博物館で企画や展示を担当する専門職の「キュレーター」に由来する言葉。著者は、モノや情報が飽和状態になっているビジネスの世界でも、キュレーターのように(1)既存の意味を問い直して再定義し(2)要素を選択して絞り込み、結びつけて編集し(3)新しい意味、文脈、価値を生成する——ことが求められていると説く。
 実例として、米アップルやセブン−イレブンの戦略、ノンアルコールビール「キリンフリー」などの成功を挙げる。キュレーションは単なるモノづくりでなく、作り手と消費者が双方向で新たな価値を「共創」する「コトづくり」であるとの視点に今日性を感じる。
    ◇
 潮出版社・1365円

2018年7月12日木曜日

居場所の社会学―生きづらさを超えて [著]阿部真大

■ノスタルジーでない実践知

 近年、若者や高齢者の「居場所」の重要性が頻繁に語られる。国家的再配分が強化されても、社会的に排除された人々が全て救われるわけではないからだ。孤独と承認の問題に対しては、「社会的包摂」の機能を高める必要がある。コミュニティーの多様化と流動化が進む中、ノスタルジーを超えた新タイプの社会が要求されている。
 著者は現代社会の「生きづらさ」の問題を追究し、居場所の実践的命題を提示する。
 居場所づくりには、まず「積極的改善策」がある。居場所はきわめて主観的なもので、その人がそこを居場所と感じているかが重要になる。また、自分にとっての居場所が、他人にとっての居場所であるとは限らない。そのため無理に過剰適応したり、また強引に押し付けたりしてはならず、常に「まわりとのコンフリクトを解決していくなかで」構築されなければならない。居場所づくりには「ぶつかり合い」による相互受容・変容が求められるのだ。
 一方「消極的改善策」もある。それは「ひとりの居場所」をつくることだ。職場などでは、わずらわしい人間関係に巻き込まれがちだが、そこで無理な適応を繰り返すと、生きづらさをこじらせることがある。そんな時には、逆にコミュニケーションからそっと離脱することも必要だ。これには職場のマニュアル化が重要であると、著者は言う。
 居場所は何も一つに限定されるものではない。「私」はいくつもの役割の集積として存在している。人間が多層的存在である以上、居場所も多層的であるべきだ。また、「居場所の臨界点」を知り、そこから状況を改善するための政治的意思をもつことも重要となる。現代社会において、居場所は所与の存在ではなく、常に選択の対象なのだ。
 具体的な実践知が求められる中、本書は重要な指針となるだろう。居場所づくりに携わる人は必読の書だ。
    ◇
 日本経済新聞出版社・1785円/あべ・まさひろ 76年生まれ。甲南大学専任講師。『搾取される若者たち』

2018年7月11日水曜日

流される [著]小林信彦

■祖父への屈折した意識を淡々と

 本編は『東京少年』『日本橋バビロン』に続く、自伝的長編の第三部に当たる。著者はここで、若いころ沖電気に在籍した母方の祖父、高宮信三を描こうと試みる。
 思春期の一時期を、青山にある母の実家で過ごした著者は、信三の人となりに親しく接した。ここに描かれる信三は、家人や周囲の人びとから敬意を払われつつ、なんとなく煙たがられるという、奇妙な存在である。
 著者自身も、信三に用を頼まれたり、外出の供を求められたりすると、半ばうっとうしいような、半ばうれしいような、複雑な気持ちになる。その屈折した意識が、さめた筆致で淡々とつづられる。
 人物描写に精彩があり、中でも素性の怪しい滝本なる男は、すこぶる小説的な人物に描かれている。
 詰まるところ著者は、祖父に対する模糊(もこ)とした心情を、あらためて検証するために自己を語り、そこに祖父の面影を見いだそうとした、と思われる。
    ◇
 文芸春秋・1550円

2018年7月10日火曜日

テクノロジーとイノベーション 進化/生成の理論 [著]W・ブライアン・アーサー

■大胆に描く、技術の自律的変化

 本書の手柄は中身よりアプローチにある。イノベーションは経済、いや人間社会と文明の発展に決定的な重要性を持つ。が、どうすればそれが起こるのか?
 これについての既存研究は多いし、著者の答えも目新しくはない。あらゆる技術は、他の技術の組み合わせである。だから技術のモジュール化とその自由な組み合わせを促進すれば、イノベーションは起こる! これは内外の多くの識者が何度も指摘したポイントだ。
 が、本書の視点が異様だ。技術が経済に貢献するという従来の見方を、本書は逆転させる。技術は生物のように、自律的に進化発達するのだ。経済はその結果でしかない!
 本書が人間不在という監修者の指摘は慧眼(けいがん)。人間は、技術という生物の淘汰(とうた)進化の環境だ。「有益な技術」を人が選ぶのではない。人間という環境に適応した技術が勝手に生き延びる! 評者などSFファンにはたまらない見方だ。第九章の、人工世界での技術進化シミュレーションなど実に興味深い。
 ただしそのおもしろさが本書の弱さにもつながる。技術が自律的なら「基礎研究に力を入れろ」といった人間側への提言は無意味では? また著者は、技術は人生を肯定するとかいう甘っちょろい結論に落とそうとする。でも本書の議論だと技術は人を肯定も否定もしないのでは?
 視点は刺激的ながら、この本だけではアナロジーにとどまりかねない。帯には「未来を見通す」とあるが、実際の技術ネタは本書だけでは無理。実際の萌芽(ほうが)技術を描いたニコレリス『越境する脳』などをどうぞ。
 複雑系経済学の雄たる著者には、今後は人間という生命体と技術という疑似生命体の共進化をもっと子細に論じてほしいところ。技術はそのとき、まったくちがう様相を表すことだろう。本書はそのための序曲となる。
    ◇
 有賀裕二監修、日暮雅通訳、みすず書房・3885円/W.Brian Arthur 45年生まれ。サンタフェ研究所招聘(しょうへい)教授。

2018年7月9日月曜日

絶望の国の幸福な若者たち [著]古市憲寿

■不安で幸せ?論争的な若者論

 現代日本の若者は不幸だといわれる。格差は拡大し、経済成長も難しい。しかし、社会調査では意外な結果が出る。20代の実に7割が、現在の生活に満足していると答える。今の若者たちは、自分たちの生活を「幸せ」と感じているようなのだ。著者は、この奇妙な幸福感の源泉を探り、現代社会のあり方を模索する。
 若者は本当に「幸せ」なのか。別の調査では、「不安がある」と答える若者の割合も増加している。若者の傾向は、「幸せ」と同時に「不安」を抱えているというアンビバレントなものなのだ。
 では、なぜそのような事態が生じるのか。それは「将来の希望」が失われているからである。もうこれ以上、幸せになるとは思えないため、若者たちは「今、幸せだ」と答えるしかない。今よりも幸せな未来を想像できないからこそ、現在の幸福感と不安が両立するのだ。
 若者は「自己充足的」で「今、ここ」の身近な幸せを重視しているという。親しい仲間たちと「小さな世界」で日常を送る日々に幸福を感じているようだ。また、一方で社会貢献をしたい若者も増加している。最新の調査では20代の若者の約60%が社会のために役立ちたいと考えている。
 ここでキーワードとなるのが「ムラムラする若者」だ。仲間といっしょに「村々する日常」とそれを突破する「ムラムラする非日常」を同時に求める心性が、多くの若者に共有されているという。しかし、非日常はすぐに日常化する。そこが居場所となれば、急速に社会性は氷解する。
 著者は、それでいいじゃないかという。複数の所属をもち、参入・離脱の自由度が高い承認のコミュニティーがあれば、十分生きていけるじゃないかという。
 しかし、現実には仲間がいるのに孤独や不全感を抱える若者も多い。賛否が分かれるであろう論争的な一冊だ。
    ◇
 講談社・1890円/ふるいち・のりとし 85年生まれ。慶応大学訪問研究員(上席)。『希望難民ご一行様』。

2018年7月8日日曜日

日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか [著]山田奨治

■「まね」から文化は生まれるのに

 『計画と無計画のあいだ』という本が出るそうな。ひょっとして拙著『生物と無生物のあいだ』のパクリではないか。しかし私はどうすることもできない。書名は、著作権で保護される著作物には当たらないから。一方、昔、♪夜と朝のあいだに、一人の私……♪なんて曲もあったなあ、などとつらつら全文書き写せば、たちまち著作権料を払わねばならなくなる。歌詞は立派な著作物(ちなみに、なかにし礼・作)。著作権侵害は、個人なら最高で「十年以下の懲役若しくは千万円以下の罰金」(法人ならなんと三億円)。単なる窃盗罪が、五十万円以下であることに対し遥(はる)かに重い。
 なぜそんなことになっているのか。本文では、厳罰化に関わっているのはごく限られた人たちであることが明らかにされていく。読みどころは、審議会議事録をもとに、実名で発言者の議論を追って、出版・音楽・映像など諸団体が、読者や視聴者を置き去りにしたまま、権益確保に邁進(まいしん)する姿を赤裸々に活写しているところ。
 また、ゆるキャラの「ひこにゃん」、「キャンディ・キャンディ」、「宇宙戦艦ヤマト」を巡っては、原作者や原画作者自身でさえ「バッタもの」の作者にされうるという事例を取り上げ、著作権のねじれ構造が解説される。
 著者は旗色を鮮明にしている。文化とは何かをまねることから生まれ、広がるものだから、著作権をむやみに厳しくすることは、文化の伝播(でんぱ)を阻害すると。
 そうなのだ。私も、タイトルや文章を借用されたり、無断利用されたりしても目くじらを立てるのはやめよう。まねることは学ぶこと〈まねぶ(C)森村泰昌〉。寛容と非寛容のあいだでは、寛容側に寄るべきだ。それが文化の本質だったはず。この著者には、研究者ながら、果断な勇気がある。言うべきことへの矜持(きょうじ)が示された著作権解説の好著。
    ◇
 人文書院・2520円/やまだ・しょうじ 63年生まれ。国際日本文化研究センター教授。情報学、文化交流史。著書多数。

2018年7月7日土曜日

宮台教授の就活原論 [著]宮台真司

 就活=就職活動は学生にとって、いまや大学入試以上の難事業かもしれない。社会学者で首都大学東京教授の著者は以前、大学の就職支援委員会委員長としてこの問題に取り組んだ。その経験から、学生と企業の双方の勘違いを指摘し、学生に心得を説く。いわく「先行き不透明な時代、企業は『適応』でなく『適応力』を求めている」「自分にぴったりの仕事なんてない」「CMのイメージで就職先を決めるな」——。そして理不尽でデタラメな社会を生き抜くために、帰還場所=ホームベースをつくれという。人生はいいとこ取りはできない、と。真っ当な原論。就活の実践に即座には役立たなそうだが、長い人生には効き目があるかも。
    ◇
 太田出版・1260円

2018年7月6日金曜日

〈起業〉という幻想―アメリカン・ドリームの現実 [著]スコット・A・シェーン

■安易な「夢」にデータで冷や水

 近年のアップル社の成功で、日本版ジョブズ待望論や、景気回復には起業による創造的破壊が必須、といった物言いをあちこちで目にする。そしてアメリカは起業に有利な環境だから、日本も政策的に起業家支援を、という話も多い。
 が、それは本当か? 本書はアメリカの起業についての実証データを元に、そうした物言いに冷や水を浴びせる。
 そもそも、アメリカはさほど起業が多くはない。またみんなのイメージするハイテクベンチャーなんかごく少数。実際にはほとんどがカフェやお店を持ったという程度。
 また起業家というと、若者が革新的なアイデアで業界に殴り込みをかけるイメージだが、実際は中年で犯罪歴が多く、起業の理由も協調性がないだけ。独創性もなくてすぐにつぶれるところ多数。
 だから本書は、安易な起業信仰はダメだ、と指摘する。むしろ起業しにくくして、安易に勤め先を辞めさせないほうが社会的には有益なのだ!
 成功するのは、学歴と所得の高い白人男性による、高成長分野の会社で、投資家が行列しているところだという。だから支援するなら、そうした起業家を選別教育すべきだという指摘は、政策立案者にとっても重要な示唆を与えてくれる。くれるのだが……。
 本書にうなずきながらも、ぼくは少し首をかしげてしまう。著者の言うような有望起業は、それだけ有利なら改めて政策的に支援する必要はないのでは? そして本書の提言——資本金豊富、株式会社、大きなビジネスだけを支援——にしたがったら、ジョブズもアップル社も芽が出なかったのでは? 平均で見れば著者の言う通りだが、ベンチャーの醍醐味(だいごみ)は平均を突破するところにあるのでは——だがそれこそまさに「起業という幻想」そのものなのかもしれない。起業させたい人はぜひご一読を。そして安易な起業を夢見るそこのあなたも!
    ◇
 谷口功一・中野剛志・柴山桂太訳、白水社・2520円/Scott A. Shane ケース・ウェスタン・リザーブ大教授

2018年7月5日木曜日

ベルリン 地下都市の歴史 [著]D&I・アルノルト+F・ザルム

■出口なきトンネル、迷走の過去ゆえに

 東京スカイツリーの工事の進捗(しんちょく)状況が話題になっているが、目につきやすい高層化の一方で、大都市が地下に向けても発展を続けているのは周知の事実だろう。限られた土地を有効利用するために、建造物や交通網も、地面の下で新たな拡(ひろ)がりを見せる。戦争や特殊な国際情勢が作用すれば、地下の用途がさらに増えていくことは想像に難くない。本書は、ベルリンという特異な歴史を持つ都市の相貌(そうぼう)を、地下から観察しようとするユニークな試みである。
 ベルリンの地下といえば、フリッツ・ラングの映画「M」の結末で、殺人犯がどこかの建物の地下に追い詰められる場面が思い出される。ヒトラーが自殺したのも地下(総統官邸地下壕〈ごう〉)。冷戦時代には、東から西への亡命者の脱出用に、ベルリンの地下にトンネルが掘られた。
 本書でくりかえされるキーワードは「出口なきトンネル」。ベルリンの地下開発における、さまざまに迷走した過去が、この言葉に端的に表されている。ナチ時代、市の中心部にアウトバーントンネルを通そうとした壮大な計画は頓挫した。戦時中は何千人という市民を収容できる地下壕が次々に作られ、工場の地下移転が進められた。戦後、ベルリンが東西に分裂すると、地下の交通網が寸断され、封鎖された「幽霊駅」が生まれた。国境付近のすべての下水管には、亡命を阻止するための保安柵が付けられたという。この時代に米英の諜報(ちょうほう)機関が掘らせたスパイトンネルも現存しているらしい。
 スパイといえば、地下は闇世界にもつながる。本書では、法の外で生きた人々の物語が、地下と結びつけて語られている。複雑な脱出ルートを地下に確保して銀行強盗に臨んだザース兄弟の話など、非常にスリリングだ。
 地下は、ベルリンではもはや一つの観光資源。「ベルリン地下世界」という社団法人があり、地下建造物の研究を進めるとともに、10コースにも及ぶ週末ツアーを企画している(ただし、ほとんどは夏季開催)。フンボルトハインの防空壕ツアーにはわたしも参加したことがある。アレクサンダー広場の地下シェルターや、「気送管郵便」(筒に入れた書類を地下の配管を通して送るシステム)の見学ツアーもあるらしい。本書の著者には、「ベルリン地下世界」の設立者も含まれている。内容が詳しいのは当然なのだ。
 カタコンベのあるパリの地下、アートな落書きのあるニューヨークの地下など、「地下都市の歴史」がシリーズで出ている。写真が充実していて、好奇心をかき立てられる。湧き起こる、「地下萌え」の予感。東京や大阪の知られざる地下も、見てみたくなってくる。
    ◇
 中村康之訳、東洋書林・3990円/Dietmar&Ingmar Arnold 64年生まれの「ベルリン地下世界」設立者・筆頭理事長と、67年生まれの共同設立者・研究部門担当◇Frieder Salm 62年生まれ。カメラマン。

2018年7月4日水曜日

春を恨んだりはしない―震災をめぐって考えたこと  [著]池澤夏樹

■全身で受け止めた被災の全体像

 震災をめぐる思索の書である。作家は女川、大船渡、陸前高田などに足を運ぶ。被災者を診た医師、夫を亡くした理髪店の母子などに会い、耳を傾ける。大勢の遺体が打ち上がった海岸に足を運び、光景を瞼(まぶた)に刻み込む。あの日に起きたこと。その全体像を全身で受け止めんとする。
 「これらすべてを忘れないこと。今も、これからも、我々の背後には死者たちがいる」「人間はすべての過去を言葉の形で心の内に持ったまま今を生きる」「原子力は人間の手には負えないのだ」……思いは言葉を紡ぎ出す。
 思考は日本列島へと及ぶ。四季のめぐる美しい国は古来、天災の勃発する国だった。それが「無常」「諦念(ていねん)」「空気社会」などの国民性を形成したのではないのか——。
 3・11以降、震災にかかわるいくつかの本を読んだ。評者にとって、共感度の高い本だった。この国にはまだ、まっとうな作家がいる。そんな安堵(あんど)感がよぎった。
    ◇
 中央公論新社・1260円

2018年7月3日火曜日

ディアスポラ [著]勝谷誠彦

■予言、そして民族の意味問う書

 この物語の通奏低音には、私たちの五感をたえず逆撫(な)でするものが流れている。鼻をつく排泄(はいせつ)物の臭気。薄い酸素。冷えた空気。肌を焼く紫外線。腐敗物にまみれたゴミ捨て場。そこから先は、高濃度の塩分と苛性(かせい)ソーダからなる死んだ湖が広がる。空高く禿鷲(チャゴエ)が旋回する。中国政府が受け入れた日本人グループのひとつが粗末なあばら屋に押し込められている。
 チベット・チャンタン高原。「キャンプ」と呼ばれるその場所に、国連難民高等弁務官事務所から派遣された調査員として「私」は訪れている。そう、ここでは日本人は難民となっているのだ。
 「私たちが有史以来くぐり抜けてきた災厄など語るほどのことですらないと思われる、あの出来事」。難民キャンプの人々は、それをただ「事故」と呼んでいる。彼らは、近くに駐屯する中国軍の監視の目を気にしながら、身を寄せ合うように暮らし、元に戻れる日を心待ちにしている。日本列島の惨状からすれば、帰国などあり得ないことを知る「私」は困惑する。
 まもなくキャンプの中で人が死ぬ。遺体は鳥葬にふされる。白く光るカイラス山を遠く見渡す峠で、国土を失った日本人が、切れ切れの断片となって自然に還(かえ)るこのシーンは研ぎすまされた美しさに満ちている。
 「事故」とは一体どんなものだったのか。日本はどうなってしまったのか。「私」の調査の目的はなんなのか。最後まで、著者はそれを詳(つまび)らかにはしない。
 おそらくこの小説はもっと大きな構造を持った物語の一部なのだろう。初出は今から10年も前のことである。予言の書であり、民族の意味を問う書である。そして、著者の隠された屈折をうかがわせる物語でもある。それは詩人になりそこねた詩人とでもいうべき屈折である。屈折がなければきっと美しい文章など書けないのだ。
    ◇
 文芸春秋・1400円/かつや・まさひこ 60年生まれ。文筆家、写真家。著書に『イラク生残記』『食の極道』など。

2018年7月2日月曜日

あの時、ぼくらは13歳だった [著]寒河江正、羅逸星

■日韓交流の真の立脚点を示す

 日本帝国主義下の朝鮮で、1945年の4カ月半、中学生として共に机を並べた日本人と韓国人。41年ぶりの再会後、二人の間で忌憚(きたん)のない会話を交わし続けた。それが本書になるのだが、当時13歳の少年たちの目に、植民地経営の実態、第2次大戦とその終戦、朝鮮の解放、さらにその後の朝鮮戦争はどう映ったのか。まさに「教科書に載らない話」が語り伝えられている。
 友情のきっかけはある一言から。朝鮮の中学校では朝鮮語を使ってはいけないとの校則があるのだが、羅逸星(ナ・イルソン)は、つい使う。それをなじる日本人同級生に寒河江正(さかえ・ただし)は、怒鳴る。「朝鮮人が朝鮮語を話して何が悪いんだ!」と。
 こうした史実(ほかにも創氏改名の内幕、日本人教師の暴力など)にふれていくと、日韓の真の交流とは何が立脚点になるのかを改めて理解できる。〈歴史〉を生きる、あるいは見つめるというのは、記憶をもとに教訓を次代に託すということだが、その範たり得る書である。
    ◇
 東京書籍・1680円

2018年7月1日日曜日

記憶を和解のために―第二世代に託されたホロコーストの遺産 [著]エヴァ・ホフマン

■親を襲った殺戮、魂の葛藤の軌跡

 ホロコースト(ショア)の闇の中で産声をあげ、母親の乳をすするようにその恐怖と悲しみ、いたみの体験を体内に取り入れた子どもたちはどうなるだろうか。おそらく親たちのトラウマと同化しようとするか、あるいは親の愛情を忌避するか、そうでなければアパシー(無感動・無関心)に陥るかもしれない。本書は、そうしたホロコースト「第二世代」の葛藤の軌跡を綴(つづ)った魂の現象学とも言える遍歴の書だ。
 彼ら第二世代にとって最大の不条理は、親たちを襲ったホロコーストという恐るべき殺戮(さつりく)が、直接的な体験としてではなく、過剰な意味、いわば寓話(ぐうわ)として与えられていることにある。この意味で彼らにとってホロコーストは、事実というよりも、むしろ得体(えたい)の知れない幻影のような出来事なのだ。それでも著者は荊棘(けいきょく)の道を行きつ戻りつしながら自己内対話を深め、ホロコーストの全体像に迫り、やがて「他者」との対話へと自らを開いていくことになる。
 「倫理の地平」に浮かぶ他者とは、何よりも絶対的な悪の象徴としての「ドイツ人」だ。ユダヤ人の第二世代とドイツ人の第二世代。対極にありながら、どこか共鳴し合う両者の関係についてこれまで多くのことが語り継がれてきた。ただ、本書で最も光っているのは、他者としての「ポーランド人」との関係に触れた箇所だ。ユダヤ人にとって、そして著者にとっても、ポーランド人はドイツ人のような「象徴的な」他者ではない。ほとんどのユダヤ人絶滅計画が実行された場所であるポーランドは、著者の家族をはじめ、多くのユダヤ人の故郷でもあるからだ。ポーランド人とユダヤ人は、同じく迫害と受難の歴史をくぐり抜けながら、しかしホロコーストにおいてはポーランド人は具体的な加害者として立ち現れたのである。
 それでも、冷戦が崩壊し、著者たちが故郷のザウォッシツェの村への帰還をかなえ、「過去への旅」を通じて父母たちの寓話を現実の中で確かめるシーンは感動的だ。そこには、他者の苦痛と死を忘れず、同時に寛容としての正義に基づいて和解を求め続ける著者の願いが溢(あふ)れている。
 だが、冷戦崩壊以後、大きな物語の空隙(くうげき)を埋めるように記憶という言葉が氾濫(はんらん)し、ホロコーストは「歴史的な恐怖のアレゴリー(寓意)の原型」になりつつある。今や、ホロコーストは、容易に感情移入や共感可能な文化現象として消費されようとしているのである。本書は、このホロコーストの「超(ハイパー)・記憶」化の現象に抗(あらが)う現代的古典として何度も顧みられるに違いない。ホロコースト以後の現代の『精神現象学』とも言える名著だ。
    ◇
 早川敦子訳、みすず書房・4725円/Eva Hoffman 45年、ユダヤ人の両親のもとポーランドで生まれる。「ニューヨーク・タイムズ」の編集者を経て作家。

2018年6月30日土曜日

死のテレビ実験―人はそこまで服従するのか [著]C・ニック、M・エルチャニノフ

■視聴者への影響力、綿密に分析

 これは、テレビの持つ危険性に警鐘を鳴らす、きわめて刺激的な本である。
 現実の暴力事件に対して、しばしばテレビの暴力シーンの影響が指摘される。しかし、本書に描かれたテレビの恐ろしさは、そんな単純なものではない。結論は、〈テレビは人を殺す可能性がある〉という、衝撃的なものだ。
 フランスのテレビマンと哲学者である2人の著者は、自らその危険性を検証すべく、S・ミルグラムが半世紀前に実施した有名な〈服従実験〉にならって、テレビの新しいクイズ番組を装い、設定を変えて同じ実験を行った。そのリポートが本書である。
 解答者(になりすましたサクラ)が答えを間違えるたびに、出題者(クイズ番組と信じる被験者)はレバーを押して、相手に電気ショック(実際には通電されない)を与える。間違えるごとに電圧が高くなり、解答者はどんどん苦痛の色を増していく(ように演技する)。そうした状況下で、出題者はどこまでレバーを押し続けるか、という実験だ。
 ミルグラムの実験では62・5%の被験者が、なんらかの葛藤を示しつつも、最高の450ボルトまで、レバーを押し続けた。ところが本書の実験では、なんと81%もの〈普通の人びと〉が、最高ボルトまで操作を続けた、という。これは、実際に通電したとすれば、死にいたる恐れのある強い電流で、それは被験者も承知していた。
 学術実験ではなく、単なるテレビのクイズ番組で、人は司会者の指示に従い、レバーを操作し続けた。ナチスのような権威もない、単なる〈テレビというシステム〉の命令に、人びとは服従したのだ。テレビは視聴者に、なぜそうした強い影響力を、及ぼすようになったのか。
 その分析結果は綿密で、ミルグラムのリポートよりも、分かりやすい。それだけに、恐ろしさはひとしおだ。
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 高野優監訳、河出書房新社・2100円/Christophe Nick テレビマン▽Michel Eltchaninoff 哲学者。

2018年6月29日金曜日

日本の大転換 [著]中沢新一

■原発の超克へと、渾身の文明論

 久々に出会った壮大な文明論だ。著者は原発事故を思想的に考察し、世界が目指すべき新たな道を構想する。
 人間は地球で生きていると言っても、表層部のわずか数キロの範囲でしか生活ができない。原発は、この生態圏の外部(太陽圏)に属する物質現象からエネルギーを抽出しようとする。地震や津波は、生態圏内部の現象なので、生態圏に備わっている力によって回復できる。しかし、太陽圏からのエネルギーの持ち込みである原発は、いったん事故が起こると、その傷は生態圏の力では治癒できない。
 中沢氏は、この構造を一神教のあり方に見いだす。一神教の絶対者は、環境を超越している。この外部的存在を軸とする「超生態圏」的な思考が、現在の科学技術文明の深層構造に決定的な影響を及ぼしている。「原子力技術は一神教的な技術」である。
 この文明は、資本主義と密接に結びついて拡大した。人間同士が人格的交差によってつながっていた時代、交換には「+α」の要素が組み込まれ、常に贈与の側面が付随した。そこでは自己の存在は自然との交差の中にあり、共感覚が発生する。東北の伝統は、農民や漁民が土地・海と霊的な一体感をもつことにより支えられてきた。しかし、資本主義は共感覚を崩壊させる。
 中沢氏は、原発—一神教—資本主義が結合する近代文明を、次の段階に昇華させるべきだと訴える。そして、その革命は「電子技術で模倣された植物光合成のメカニズム」を用いた太陽光発電に集約される。人工的光合成によって太陽が放出したエネルギーを媒介的に変換し、生態圏でのエネルギーとして活用することを、中沢氏は「エネルゴロジー」(エネルギーの存在論)という造語で捉え、「太陽からの贈与」に依拠した文明の転換を迫る。
 原発を存在論的に超克しようとする渾身(こんしん)の文明論を、しっかりと受け止めたい。
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 集英社新書・735円/なかざわ・しんいち 50年生まれ。明治大学野生の科学研究所長。『アースダイバー』など。

2018年6月28日木曜日

モラルのある人は、そんなことはしない―科学の進歩と倫理のはざま [著]アクセル・カーン

■生命操作の技術をどう考える

 カズオ・イシグロ原作の映画「わたしを離さないで」の切ないシーンがよみがえった。クローン技術で臓器提供のためだけに生まれてきた少年少女の物語だ。
 この想定こそ荒唐無稽に思えても、きょうだいへの移植を目的にこどもをつくることを認めるかどうか、そんな議論は現実に起きている。
 生殖補助医療や臓器移植、遺伝子操作と、生命を操作する技術が急速に進む。私たちはどう考えればよいのか。
 フランスの著名な遺伝学者である著者が多くの具体例をもとに思索をめぐらす。その根底にあるのは「他者の尊重」という原則だ。
 表題は子ども心に刻み込まれた、教育者だった父の言葉「良い子はそんなことを言ってはいけない」に由来する。
 市民がそれぞれ考えるためには専門家による情報提供が欠かせない。その専門家が、自身が望む方向に世論を誘導しようとしたとき、民主主義は危機的状況に陥る。この指摘はずしりと重い。
    ◇
 林昌宏訳、トランスビュー・2625円

2018年6月27日水曜日

〈私〉だけの神―平和と暴力のはざまにある宗教 [著]ウルリッヒ・ベック

■異なる信仰、いかに共存するか

 世界を震撼(しんかん)させた同時多発テロから十年。世界は一向に平和になったように見えない。つい最近も、右翼思想の青年がノルウェーでテロ事件を起こしたばかりだ。グローバル化の進む社会のなかで、価値観の異なる者同士がどのように共存していくべきかが切実な問題になっている。
 「個人化」「リスク社会」というキーワードで知られるドイツの社会学者ベックは本書において、宗教が国境を超えて平和を生み出す力を持つ一方で、信仰者と不信仰者を区別し、不和と暴力の原因を作ってしまう可能性も指摘して、さまざまな角度からの現状分析を行いながら、「個人化」する宗教の、平和創出の可能性を探っている。
 ドイツでは、20世紀前半ごろまで、親の宗教を子が受け継ぐのは当たり前だった。無宗教も含め、自分の宗教を自分で選べるようになったのは比較的最近のことだ。こうした「個人化」によってヨーロッパのキリスト教会が著しく衰退したのに比べ、たとえばアフリカでは、キリスト教徒がめざましく増加している。逆に、移民の流入により、ヨーロッパに住むイスラム教徒の数がどんどん増えているのは周知の事実だ。狭い地域に複数の宗教の信者が混住するのが普通になっている。
 それぞれの宗教が唱える「真理」が信仰の異なる者を排斥せず、他者と平和的に共存するためには、何が必要なのか? 「自由とは常に、思想の異なる者の自由」といったローザ・ルクセンブルクの言葉が思い起こされる。
 ベックはユダヤ人エティ・ヒレスムが記した神との対話や、ガンジーの「方法論的改宗」、ドイツの劇作家レッシングが示す三つの指輪のたとえ(父親が全く同じに見える「家宝の指輪」を三人の息子に与える話。「真理」と「宗教」の関係を表す)などを挙げている。スピリチュアルな共存を考える上での、たくさんのヒントがありそうだ。
    ◇
 鈴木直訳、岩波書店・3465円/Ulrich Beck 44年生まれ。『危険社会——新しい近代への道』など。

2018年6月26日火曜日

盆踊り―乱交の民俗学 [著]下川耿史

 伝統行事を「性的共感」から見直そうとした異色作。著者は風俗史家で、とりわけ性にまつわる本を数多く書いてきた。従来の民俗学は性のテーマを真っ向から取り上げておらず「祖霊信仰や農耕儀礼などの問題にすりかえ」てきた、とふんまんやるかたない。今では民俗芸能として多くの見物客を集める有名盆踊りも、元は交歓の相手を共同体の中で、ひそやかに選びあうことが主眼だったとみる。さらに盆踊りにつながる種々の踊りを生んだ「風流(ふりゅう)」文化は「夜ばい」や「ざこ寝」と同根、というのが著者の主張で、そのルーツを折口信夫が「謬(あやま)り」としてしりぞけた、古代の性的な行楽行事「歌垣」に、あえて求めている。
    ◇
 作品社・2100円

2018年6月25日月曜日

峠うどん物語 上・下 [著]重松清

■死者と出会い、生に向き合う

 震災後、様々な言葉が紡がれた。復興へのヴィジョン、原発批判、被災地のルポ……。
 その言葉の渦のなかで、最も取り残されたのは、震災で大切な人を亡くした人たちだったのではないか。「死者」という問題と、我々は本当に対峙(たいじ)したのだろうか。
 本書の舞台は、峠のてっぺんに建つうどん屋。もともとは木々に囲まれた静かな店だったが、突然、向かいの雑木林が伐採され、市営斎場がオープンした。店の客層は一変。斎場で故人を見送った人たちが利用する店になった。
 主人公は、この店を切り盛りする老夫婦の孫。女子中学生の「よっちゃん」は、日々「三人称の死」と出会い続ける。そして、その過程で静かに自己の生と向き合う。
 身近な人間の死は、確かに喪失だ。もう「あの人」はいない。しかし、私たちは喪失と同時に新たに出会っている。死者となった「あの人」と。死者は「私」に内在しながら、「私」を超越する。死者は「私」を見通す。死者との内的対話は、単なる追憶では終わらない。自己が如何(いか)に生きるのかという問いへと連続する。死者は自己との対峙を迫る。
 「よっちゃん」は、死者と向き合ったばかりの他者と出会う。死者を通じて自己の人生を凝視する人たちを見つめ、自分も少しずつ変容していく。そんな場面を、温かいうどんが和らげる。
 いま、私たちの多くは「よっちゃん」と同じところに立っているのではないか。私たちは震災を報じるメディアを通じて、多くの「三人称の死」と出会った。「二人称の死」に直面した人もいるだろう。
 私たちは、自分の生を問い直しただろうか。いま、ここで生きていることの意味を問い直しただろうか。
 本書は震災後の日本に、「死者との出会い」という問題を提起している。著者が投げたボールを、しっかりと受け止めたい。
    ◇
 講談社・各1575円/しげまつ・きよし 63年生まれ。作家。『エイジ』『ビタミンF』『十字架』など。

2018年6月24日日曜日

ツナミの小形而上学 [著]ジャン・ピエール・デュピュイ

■技術とシステムがもたらす災禍

 本書の著者デュピュイによれば、戦後広島と長崎を訪れた哲学者ギュンター・アンダースは、爆撃生存者の証言に驚いたという。彼らは原爆を投下した相手を恨まず「災禍を自然災害のように、まるでツナミでもあったかのように受けとめていた」からだ。
 この時すでに兆候はあった。いまや「悪」はもはや自然にも人間にも帰属させ得ない。それはデュピュイの言う「システム的な悪」として、常に私たちを共犯関係に巻き込もうとするだろう。
 人間の制御と想像の範囲を超えた技術とシステムがもたらす災禍は、アンダースの予言通り、かつてない「最も憎しみを伴わない戦争」に至る。そう、私たちが現在「フクシマ」を巡る戦時下にあるように。もし「東電」と「原子力村」こそが敵だ!と割り切れていたら、どれほど楽だったろう。
 現代においては悪意や愚かしさ以上に「思慮の欠如(thoughtlessness)」こそが災禍の原因だ。私たち自身の、多領域にわたる重層的な判断と近視眼的な決断こそが、システムの暴力をもたらすからだ。このときシステムが外在化され聖なるものとして扱われるとしたら、それは私たちの認知的限界ゆえである。
 このような状況は、いかなる予言をも無効化するだろう。確実に予想される災厄の予兆を前に、私たちはなすすべもなく立ちすくむ。アウシュビッツの駅に到着したユダヤ人たちが虐殺の現実を信じようとしなかったように。
 デュピュイが提唱するのは「覚醒した破局論」だ。それは人類の自己破壊を「未来に刻まれ運命として凝固したもの」として扱う。未来の破局を、既に起きた喪失としてあらかじめ悼みつつ、その予言と警告の作用に賭けること。
 ならば、いま私たちのなすべきことはただ一つ、未来において“失われた”子供たちの生を悼むことにほかならない。
    ◇
 嶋崎正樹訳、岩波書店・1995円/Jean−Pierre DuPuy 41年生まれ。スタンフォード大教授(科学哲学)。

2018年6月23日土曜日

情報時代のオウム真理教 [責任編集]井上順孝

■一次資料をもとに忘却から拾い出す

 私たちは「オウム真理教」を忘れている。正確にいえば、無意識のうちに忘れたがっている。その証拠に、麻原彰晃の裁判がどういうプロセスを経て現在に至っているか、多くの人は知らない。関心はとっくの昔に薄れている。
 そもそもオウム真理教がなぜ地下鉄サリン事件を起こしたのか、その原因を世の中は共有しているのだろうか。
 もちろん凶悪事件の原因を、完全な形で特定することはできない。しかし、私たちはその前段階で、思考することを放棄している。事件が起こった1995年にはあれほど大騒ぎしたにもかかわらず、熱狂がさめると一気に無関心と忘却が広がった。残されたのは不透明感と不安。そして過剰なセキュリティー社会だ。
 私たちは、やはりオウム真理教といま一度、向き合う必要がある。あの事件はなぜ起きたのか。教祖と信者の関係はいかなるものだったのか。オウム真理教が説いた教義とは何だったのか。メディアの対応に問題はなかったのか。そして、なぜ当時の若者の一部がオウム真理教に惹(ひ)かれたのか。
 本書はオウム真理教に関する膨大な一次資料を収集し、複数の研究者で分析した研究書だ。宗教情報リサーチセンターが資料を整理し、デジタル化した。
 布教・入門用ビデオ、アニメーション、修行用ビデオ、ラジオ放送、説法テープ、音楽、書籍、雑誌、教本……。多岐にわたる資料の分析を通じて、オウム真理教を多角的に論じる。またメディアが教祖・教団をどのように表象してきたかを検討。さらに教団の多様な活動と歩みを明らかにする。
 その時のキーワードは「ソト」と「ウチ」。残された資料が示すのは、「ソト」向けの「布教」と「ウチ」向けの「教化」では、内容が異なるということである。
 興味深いのは「オウム音楽」の分析。麻原の名前を連呼する「尊師マーチ」に代表される「ソトの曲」は、教義の内容には踏み込まない。しかし、「ウチの曲」ではオウム特有の「専門用語」が頻出し、外部の人間では理解不可能の歌詞が多くなる。さらに「ウチの曲」の中でも外部と接触する場では使用されない教団内部限定の「ウラの曲」が存在する。ここでは「ポア」や「戦え」といった暴力を推奨する用語が登場し、麻原への忠誠が歌われる。
 映画監督・森達也の映像作品『A』『A2』をめぐる賛否にも、1章が割かれている。昨年、森が新たに出版した『A3』と共に、本書をひもとくことでオウム真理教を忘却の淵(ふち)から拾い出す必要があるだろう。私たちの今を見つめなおすためにも、簡単に忘れていい事件ではない。
    ◇
 宗教情報リサーチセンター編、春秋社・3780円/いのうえ・のぶたか 48年生まれ。国学院大学教授。『人はなぜ新宗教に魅かれるのか?』『神道入門』など。

2018年6月22日金曜日

福島の原発事故をめぐって [著]山本義隆/福島原発の闇 [文]堀江邦夫 [絵]水木しげる

■論理と想像力で内奥えぐり出す

 福島の原発と原発事故を「あの人」はどうとらえているのだろう。そんなふうにぼんやりと思い浮かべていた「あの人」たちの本が出た。
 『福島の原発事故をめぐって』の著者山本義隆は、大佛次郎賞などを受賞した『磁力と重力の発見』全3巻などで知られる。その磁力と重力の先に、人間は原子力を発見し、原爆と原発を造った。
 山本は、東日本大震災と津波、福島の原発事故が「科学技術は万能という一九世紀の幻想を打ち砕いた」とみる。
 そして「自然にはまず起こることのない核分裂の連鎖反応を人為的に出現させ」るようなことは「本来、人間のキャパシティーを超えることであり許されるべきではないことを、思い知るべきであろう」と主張する。
 科学技術史の時間軸と戦後の国際関係という空間軸に原発をおいて、山本は論理の力でこの「怪物」を批判する。
 一方、『福島原発の闇』は、下請け労働者として原発の内部に入った堀江邦夫のルポと、水木しげるの絵で原発の「闇」をリアルに描き出す。1979年秋の「アサヒグラフ」に掲載された記事を改めて単行本にしたのだという。
 水木は、原発を外から見ただけで中には入っていない。それなのに、この絵の迫力はどうだろう!
 「マスクをかぶったときの息苦しさ、不快な匂い、頭痛、吐き気までもが甦(よみがえ)ってくる」と堀江は書いている。
 さきの山本が論理で原発を語るのに対し、堀江と水木は体験とそれに基づく感覚、そして想像力で原発の内奥にあるものをえぐりだす。
 論理と想像力。
 原発を考えるときには、これら二つが欠かせない。
 「原子力発電は、たとえ事故を起こさなくとも、非人道的な存在なのである」(山本)
 二つの著作は、ここで交差する。
    ◇
 『福島の原発事故をめぐって』みすず書房・1050円/『福島原発の闇』朝日新聞出版・1050円。

2018年6月21日木曜日

昭和の流行歌物語―佐藤千夜子から笠置シズ子、美空ひばりへ [著]塩澤実信

■誰もわからないヒットの条件

 好みからいうと「流行歌」というより「歌謡曲」かな? でも、「流行歌」を「歌謡曲」に言い換えたのは戦時中のおカミだそうだ。
 「歌は世につれ、世は歌につれ」ながら時代の歌は現実の人の心の飢えや、どろどろした情念を写実的にリアルに描いたかと思うと、虚構の世界を設定して時空を非日常的な想像の中でうんと飛翔(ひしょう)させて、自由に夢や愛と戯れながら遊ばせてくれる。どの歌も世相を反映しているがどこか仮想じみているのが流行歌だ。そして気がついたらわれわれは物語の中の主人公になってしまっている。
 流行歌によって現実はペロッと裏返されて虚構化されてしまう。その最たるものが軍歌でまるで大本営作詞かと思わせる歌もある。しかし歌い継がれるのは当局推奨の勇ましい歌ではなく、悲壮感あふれる短調の調べだった。
 歌が先か世が先か知らないが流行歌の運命を仕切るのは全てレコード会社の商業的思惑で、スターダムに乗るのも凋落(ちょうらく)するのも売れる売れないの一点で決まる。これは歌手だけではない、作詞家、作曲家もこの運命からは逃れられない。本書の著者はそんな現場の修羅場をまるで見てきたように語る。本書には著者と著名音楽家たちとのツーショット写真がたくさん掲載されているが、歌が生まれ、ヒットする現場に入りこんで描いたルポだけに臨場感がある。
 本書は流行歌が物語る立派な昭和史である。そんな昭和の時代を走り抜けたのが女王・美空ひばりで、人気ナンバーワンは「青い山脈」。だけど激動の昭和史の代表的国民歌の筆頭が、なんと歌手では素人の渡哲也の「くちなしの花」だというから驚く。この歌を聴いた石原裕次郎が「もしヒットすれば銀座を逆立ちして歩く」と豪語したように、ヒットの絶対条件は誰もわからないのだ。どうもヒット曲は「社会的条件」と関係がないらしい。
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 展望社・1995円/しおざわ・みのぶ 日本出版学会会員。著書に『出版社の運命を決めた一冊の本』など。

2018年6月20日水曜日

安心ひきこもりライフ [著]勝山実

■けしからんが必読なのだ

 実にけしからん本だ。
 ひきこもりの第一人者(笑)たる評者の著書を「可もなく不可もない」と一刀両断。政府のひきこもり対策事業を「ひきこもり関ケ原」などと巧みに茶化(ちゃか)す(うっかりニヤニヤしたのは秘密だ)。この“名人”に「就労など煩悩に過ぎない」と言われては、治療者として返す言葉もない。
 ほかにも「腐れチャレンジ」「働かざること山の如く」「半人前理想主義」「自立とは正しく落ち込むこと」「月見草でいいじゃないですか」など名言金言が目白押し。目指すは罪の意識なく、のびのびひきこもる生活。そのための福祉サービス利用法、甥(おい)っ子とのつきあい方など、当事者ならではの超実用的なアドバイスまである。
 「可能性を広げるとは、堕(お)ちること」と主張する本書は、現代の小さな「堕落論」だ。なのに本書の「笑い」には逆説的な希望、評者には決して示し得ない希望がある。けしからんが必読なのだ。
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 太田出版・1470円

2018年6月19日火曜日

笑顔の国、ツバルで考えたこと [著]枝廣淳子、小林誠

 地球温暖化で海に沈みゆく島という悲劇的な側面が強調されるが、おおらかな暮らしぶりも紹介している等身大の報告書だ。
 ツバルを構成する九つの島のほとんどは標高1〜2メートルで、人口は約9000人。主要な食べ物はココナツやパンノキ、タロイモなど。伝統的な踊りは「ファーテレ」。でも、ツバルをツバルたらしめているのは彼らの笑顔だという。だれにでも「タロ〜ファ〜」(こんにちは)と声をかける民族性を知ると、こちらまでほおがゆるむ。現地で1週間を過ごした筆者が「1日に100回ぐらいにっこりしていました」というのに納得。写真家でツバル環境親善大使の遠藤秀一さんが撮ったカラー写真の数々が、理解を助けてくれる。(英治出版・1575円)

2018年6月18日月曜日

リトル・ピープルの時代 [著]宇野常寛

■小さな物語に依存「拡張現実の時代」

 本書は『ゼロ年代の想像力』で華々しいデビューを飾った若手批評家の三年ぶりの書き下ろし評論集である。テーマは再び「想像力」だ。議論の構えは大きい。震災後の現状をふまえ、宇野はまず村上春樹を参照する。ビッグ・ブラザーが体現していた「大きな物語」が失効し、人々は目先の「小さな物語」に依存しようとする。
 『1Q84』で村上が描いた「リトル・ピープル」こそは、意図も顔も持たずに非人格的な悪をもたらす「システム」の象徴だ。今必要なのは、制御不能におちいった「原発」のような巨大システムに対する想像力なのだ。
 しかし宇野は、村上作品に頻出する、男性主人公の自己実現のコストを母なる女性に支払わせるというレイプ・ファンタジィ的な構造を批判する。その構造に潜むナルシシズムが、リトル・ピープルの悪を隠蔽(いんぺい)してしまうからだ。
 ここに至って、本書の中核をなす二つのテーゼが示される。
 「私たちは誰もが『小さな父(リトル・ピープル)』である」、そして「リトル・ピープルとは仮面ライダーである」と。あなたがこの唐突な断定に失笑したとしても、すでに著者の思うつぼである。なぜなら彼はこう書いている。「冗談のように聞こえない批評には何の力もない」と。
 かくして、本書の白眉(はくび)は第2章、平成仮面ライダーの分析である。かくも異様な虚構世界が子供たちの人気を博していたという事実を、あなたは知っていただろうか。たとえば『仮面ライダー電王』の主人公は、敵であるはずの四体のモンスターを自らに憑依(ひょうい)させ、四つの人格を切り替えながら敵と戦うヒーローなのだ。
 仮面ライダーの「変身」を、〈いま、ここ〉を多重化する身ぶりと読み替えた宇野は、現代を仮想現実ならぬ「拡張現実の時代」とみなす。大筋で異論はないが、しかし一点だけ。
 現実を多重化するレイヤーの中にすら、例えば「ナショナリズム」は回帰する。大きな物語は終焉(しゅうえん)せず、矮小(わいしょう)化されて反復されるだろう。宇野の奔放な想像力は、たとえば同じく文学的想像力をナショナリズムの解毒に用いるスピヴァクの『ナショナリズムと想像力』などで補完される必要があろう。
 本書のあとがきは必読だ。宇野の筆名の由来がはじめて明かされる。なぜ彼が「リトル・ピープル」にこだわるのか、その理由の一端がわかるだろう。かくも私的なモメントに根ざした言葉ゆえ、彼の言葉は信頼に値する。その深きライダー愛に敬意を表しつつ、本稿の〆(しめ)はやはり、仮面ライダー電王の「あのセリフ」の引用で。
 信じてるけどいいよね? 答えは聞いてない!
    ◇
 幻冬舎・2310円/うの・つねひろ 78年生まれ。評論家。企画ユニット「第二次惑星開発委員会」主宰、カルチャー総合誌「PLANETS」編集長。『ゼロ年代の想像力』など。

2018年6月17日日曜日

Made by Hand―ポンコツDIYで自分を取り戻す [著]マーク・フラウエンフェルダー

■自作で世界の仕組みを理解する

 最近のビジネス書を見ると、パソコンやインターネットの世界はマイクロソフト、アップルやグーグルなどの企業活動だけしかないかのようだ。でも実際にそれを支えたのは多くのアマチュアハッカーたちだ。かれらが自由闊達(かったつ)にプログラムを書き、付属機器を組み立て、ウェブページを作る中で、応用範囲が広がり、産業としても成立するようになった。
 が、目新しさも薄れるにつれ、そうしたホビイストたちが目を向けつつあるのが、物作り工作の分野だ。シンプルなコンピューターをスイッチ代わりに使った各種の小物やロボットから、いまや料理や編み物裁縫まで含む一大運動となっている。
 本書は、そうした流れの一環として様々な自作活動に挑戦してきた著者のDIY経験を綴(つづ)った本だ。
 挑戦の幅は実に広い。野菜作り、養鶏や養蜂から子供の自家教育、コーヒーマシンから手製ギターに紅茶キノコ。それぞれの経験談も楽しいのだが、本書を何より興味深いものにしているのは、その哲学だ。自作は、世界の仕組みを理解し、世界との関わりを深めるための手段でもあるのだ。失敗してもかまわない。いや、失敗しなくてはならない。そこにこそ、工夫と学習の余地があるのだから。
 首をかしげたくなる試みもある。が、著者がなぜそれに関心を持ち、どう失敗を重ね、そこから何を引き出したかというのは明確。多くの試みは失敗したまま。でもだからこそ、成功しておしまいというお話にとどまらず、著者の得た世界の理解が見えてくる。
 本書を読むと、自分でも何か新しいことを試してみたくなるはず。そしていま急成長しつつあるこの分野の醍醐味(だいごみ)もわかるだろう。いまのうちに、本書で是非それを味わっておこう。意外とここから、インターネットに続く明日の一大産業も生まれるかもしれませんぞ。
    ◇
 金井哲夫訳、オライリー・ジャパン・2310円/Mark Frauenfelder 60年生まれ。雑誌「Make」編集長。

2018年6月16日土曜日

共同体の救済と病理 [著]長崎浩

■革命への熱狂が生む、逆ユートピアの悲惨

 もっと自由を、もっと共同性を。この救済共同体への渇望が大衆を駆動し、歴史を動かすモメンタムに転化するとき、どのような悲惨な逆ユートピアが待ち構えているのか。この点を明らかにするのが本書の狙いだ。全共闘運動の高揚期に『叛乱(はんらん)論』でデビューした著者のラディカリズムは、いまも健在である。オウム真理教や人民寺院、新左翼の前衛組織やロシア革命の労農兵士代表ソビエト、さらにパリ・コミューンに至るまで、さまざまな衣装をまとった共同体を、フロイトの集団心理学を手がかりに古代ユダヤ教罪悪共同体や受苦共同体とダブらせて論じる知的な力業には驚くばかりだ。
 それにしても、なぜフロイトなのか。著者のみるところ、フロイトは、神経症患者の臨床を通じて時代が大衆の集団神経症的な病理に取り憑(つ)かれつつあることをハッキリと認識していた。この「大衆心理の悲惨」こそ、ボリシェヴィズムやナチズムを内側から突き動かす「自然力」にほかならない。その御しがたい集団神経症的な強迫の脅威を背景に、フロイトは『人間モーセと一神教』を書いた。この点に著者は注目する。なぜなら、知的な類推を逞(たくま)しくすれば、そこには共同体の内なる超自我としての宗教的・革命的な理念、共同体の自我とも言うべき政治、共同体のエスとしての大衆の無意識、さらに外界に対応する外敵といった原型的なパターンが出そろっているからである。
 著者は、その祖型を探り当てるべく、古代ユダヤ教の救済共同体の読み直しを試みる。ウェーバーの『古代ユダヤ教』やフロイトの精神分析などを駆使しながら、独自に読み解かれる苦難の歴史と共同体的結束の強化のパラドクスは圧巻である。中でも特に本書で異彩を放っているのは、フロイトの言う、殺害された「原父」の代理としての預言者に関する記述である。ウェーバーやフロイトに倣って無償の「デマゴーグ」や「政治的宗教的アジテーター」とみなされる預言者たち。著者は彼らを、後々、「大衆の叛乱」を背景に登場する前衛党のリーダーや「憂鬱(ゆううつ)なる党派」のインテリと結びつけている。このような時空を超えた結びつきは、牽強付会(けんきょうふかい)の誹(そし)りを免れないかもしれない。しかし、著者はそれを百も承知なはずだ。
 むしろ行間から読み取るべきは、本書の批判の刃は著者自身にも向けられていることだ。本書が挑発的な問題提起の書であることは間違いない。特に大震災以後、「閃光(せんこう)のように立ち上がる相互扶助と連帯のパラダイス」が、再び、救済共同体への熱狂を増幅させることになりかねないからだ。共同体の病理を繰り返さないためにも、本書は一読の価値がある。
    ◇
 作品社・3360円/ながさき・ひろし 37年生まれ。評論家。政治思想・科学技術・身体運動論を論じる。『叛乱論』『叛乱の六〇年代』など。

2018年6月15日金曜日

子どものための小さな援助論 [著]鈴木啓嗣

 筆者は児童精神科の医院を開業している50代の医師。心のトラブルを抱えた子どもたちに日々接しているバリバリの臨床家である。その人の心に浮かんだ思い——「私の学ぶ専門的な援助方法は、あまりに不自然(あるいは有害)ではないか」。その根っこを掘り下げ考察したのが本書だ。一例として挙げられた、同業者の口から漏れる「もう少し早くここに来ていたら……」という「無敵ワード」の毒は恐ろしい。
 発達障害や摂食障害、不登校の子らとの一筋縄ではいかない関係を語り、「自立」「社会参加」の隆盛に疑問を投げる。援助の概念を通じた社会批評の書としても読め、介護や被災者支援の場にも、おのずと思いが及ぶ。(日本評論社・1890円)

2018年6月14日木曜日

地球の論点―現実的な環境主義者のマニフェスト [著]スチュアート・ブランド

■原発推進へと「転向」した理由

 七〇年代米西海岸文化を支えた「全地球カタログ」。大企業と政府による消費と管理の枠組みに対抗し、個人の創意と自由に基づくエコライフスタイルを提案した雑誌だ。同誌の標語「ずっと無謀で」はアップル社のジョブズの座右の銘にもなった。
 その伝説的な編集発行人が本書の著者スチュアート・ブランドだ。その後も電子コミュニティー初期の論客としてネット社会の議論形成に貢献した。いまの環境保護論者の多くは彼の影響下にある。
 本書はそのブランドが地球温暖化を懸念し、対策を提案した本だ。その答えは、都市化促進、気候工学、遺伝子工学、そして……原子力推進だ。
 ファンたちは仰天した。いずれもかつてのブランドが全否定した技術ばかり。だが本書は「転向」の根拠を反駁(はんばく)しがたい詳細さで説明する。
 さらに統計学者ロンボルグが地球温暖化否定論者として(誤って)批判されるが、実は彼の支持する温暖化対策はブランドとまったく同じ。立場に依(よ)らない結論の一貫性は、利権や党派的な歪(ひず)みの不在を図らずも示している。
 温暖化にもっと気長な取り組みを主張する声もある。その場合も本書の技術は、他の面で人類の将来に大きな意味を持つ。今の日本では、多くの読者は本書に反発するだろう。目下の原発事故で著者の見解も変わるかもしれない。だが脱原発を訴える人こそ本書を読んでほしい。本書でも指摘の通り、原発といっても様々だ。重要なのは長期的な可能性を理解した上での選択なのだから。
 「全地球」を看板に個人の自由とミクロな技術の意義を訴えてきたブランドが、本当の全地球問題で巨大システムと大規模科学に救いを求めるとは皮肉。だが結論に同意せずとも、その選択を直視した著者の誠実さは尊重すべきだろう。また敢(あ)えてこの時期に本書を出した版元の蛮勇にも脱帽。
    ◇
 仙名紀訳、英治出版・2310円/Stewart Brand 38年生まれ。編集者、未来学者。『メディアラボ』など。

2018年6月13日水曜日

原発報道とメディア [著]武田徹

■相互不信溶かす「新しい地図」は

 世間では原発推進派VS.反対派という対立が続いている。著者は、相互不信を強化する両者の対立構造とメディアのあり方に鋭くメスを入れる。
 福島第一原発の事故は、外部電源の喪失に大きな原因があった。しかし、既に海外では重力による冷却水注入や自然廃熱による冷却システムなど、電源喪失を前提とした技術が開発されていた。にもかかわらず、なぜ日本では導入されなかったのか。
 推進派は「絶対安全」を繰り返してきた手前、「より安全な原発」がありえることを認めると、稼働中の原発に不足があると認めることになる。教条的な反原発論者は、安全神話の綻(ほころ)びを突き、より安全性の高い技術の存在を容認しない。結果、古い原発は古い技術のまま稼働し、リスクが拡大する。この相互不信に基づく膠着(こうちゃく)状態が、今回の事故につながったのではないかと著者は指摘する。
 推進派は、なぜ絶対安全というプロパガンダを取り下げられなかったのか。反対派はなぜリスクの総量を減らす方向に踏み込めなかったのか。
 ここで重要なのがメディアの役割だ。著者曰(いわ)く、ジャーナリズムは本来、相互不信を溶解し、価値観の調停を進めながら最適解を追求すべきである。しかし、現在のジャーナリズムは二分法構造に回収され、リスクの拡大に加担している。この負のループを解消することは可能なのか。
 そこで注目されるのが、ネットメディアの存在である。今回の震災ではツイッターをはじめとするソーシャルメディアが一定の役割を果たした。しかし、著者は安易なツイッター礼賛に警告を発する。ネット上のコミュニティーは、どうしても価値観を共有する集団になりがちで、推進VS.反対という二分法的膠着状態はますます加速する。
 私たちはメディアの「新しい地図」を手に入れることができるのか。原発報道が露(あらわ)にした課題は大きい。
    ◇
 講談社現代新書・798円/たけだ・とおる 58年生まれ。ジャーナリスト。『戦争報道』『NHK問題』ほか。

2018年6月12日火曜日

「大相撲八百長批判」を嗤う―幼稚な正義が伝統を破壊する [著]玉木正之

 大相撲の八百長問題を追及してきた週刊誌記者や作家宮崎学氏との対談をはさみながら、この問題を考える。
 著者は「八百長か否か」よりも「面白い相撲か否か」を重視する。ガチンコばかりではけが人が続出する、興行の観点から見ても「拵(こしら)え相撲」は否定できない、しかし外国人力士をはじめ「情」「阿吽(あうん)の呼吸」を理解しない力士が増えたことで八百長がシステム化され、目に余る行為が横行するようになった、とみる。そして「日本文化としての相撲」の復権を訴える。スポーツと興行と神事のはざまにある相撲が、あいまいさを抱えたままで存在し続けることはできるのか。
  ◇
飛鳥新社・1680円

2018年6月11日月曜日

調査報道がジャーナリズムを変える [編]田島泰彦・山本博・原寿雄

■力ある報道は手作りの仕事から

 新聞、テレビ、ネット……日々、情報とニュースはあふれているが、歯応えある報道と接することは案外と少ない。本格的な調査報道もまた少なくなった。本書は、調査報道を担ってきた記者やメディア研究者たちによる、ジャーナリズムへの熱い思いと論考をまとめたものである。
 紹介されている調査報道は「桶川ストーカー事件」「足利事件」「核の持ち込み密約」「リクルート事件」「北海道警の裏金づくり」「検察と国策捜査」など。加えて、海外でのネット時代の調査報道も紹介されている。
 調査報道に共通するのは、振り返っていえば総理の首を取るような大事件に発展した報道も含め、発端は記者個人の“小さな引っかかり”にあることだ。
 足利事件の冤罪(えんざい)報道は、それまでの捜査に疑念をぬぐい切れない記者が遺族に手紙を書いたことからはじまっている。リクルート事件は、贈賄罪の時効という壁を突破しようとしたデスクの個人プレーがあった。いずれも記者クラブでの“官製報道”からは生まれないものだった。
 調査報道はアメリカの新聞メディアが切り開いた歴史があるが、時間とカネを食う。新聞産業が不況に陥っている現在、小さなローカル紙では担うことがむつかしくなっているという。一方、調査報道へのNPOや基金がつくられ、ネット初のピュリツァー賞も生まれている。
 ネット社会が進行し、報道と情報暴露の境界線も判然としなくなってきた。メディアは過渡期にあって明日の姿は定かに見えない。ではあるが、どこまで行っても、力ある報道は記者個人の手作りの仕事からはじまることは動かない。調査報道を担ってきた記者たちの来歴が、全国紙やテレビ局に所属する以前、地方紙や写真週刊誌にあったことは示唆的である。志ありてジャーナリズムあり——。そんな古風な言葉がよぎる。
     ◇
 花伝社・1785円/たじま・やすひこ 上智大教授、やまもと・ひろし 元朝日記者、はら・としお 元共同通信編集主幹。

2018年6月10日日曜日

税と社会保障の抜本改革 [著]西沢和彦

■負担と受益「関係明確に」

 政治の混迷で税と社会保障の一体改革は議論こそあれ一向に前に進まない。しかし、そんな時に将来を見据えて有益な勉強ができる書物である。
 日本の財政が危機的な状況にあるといわれて久しいが、その実態のかなりの部分は税や赤字国債で調達された資金が、さまざまな形で社会保障費の増大に回されていることによる。本来社会保険料で賄われるべき年金や医療制度に、こうした現在ないし将来の税負担が紛れ込むことによって、社会保障制度の負担と受益の関係が希薄化し、サービスに対する過大な需要が発生したり、負担増のための増税や社会保険料値上げも実現しにくくなっている。一体改革のためにはこうした構造が明確にされ、その上でどのような給付水準、負担形態が望ましいかの議論がなされねばならない。
 以上の著者の基本的な主張を踏まえると、本書全般で展開されている各制度についての具体論も理解しやすい。
 植田和男(東京大学教授)
     *
 日本経済新聞出版社・2100円

2018年6月9日土曜日

「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか [著]開沼博

■能動的に原発を「抱擁」した歴史

 福島は、どのようにして「原子力ムラ」となり「フクシマ」となったか。その主題を「中央と地方」「戦後成長」との関係から追究する。約400ページの本書は一部を除いて3・11以前に書かれた。福島県生まれの若い研究者の学術論文が、未曽有の大震災をへて注目を集めている。
 「(原発が)ないならないほうがいい」
 著者のインタビューに福島県の50代の女性が答える。それでも「出稼ぎ行って、家族ともはなれて危ないとこ行かされるのなんかよりよっぽどいいんじゃないか」と。
 原子力ムラは自ら能動的に原発を「抱擁」(受容)している。その「幸福感」に著者は着目し、ムラを受動的な存在とみる見方を退ける。
 本書を読みながら、私は水上勉のエッセー「『原発の若狭』のこと」(青林舎刊『原発切抜帖(きりぬきちょう)』所収)を思った。
 郷里・若狭になぜ原発が集中するのか、水上が元小学校長の知人に尋ねる。「二男三男・子女」を「都会奉公」に出してきた「貧困な農漁民」が「世間なみのくらし」を求めて一手に引き受けてしまった、と知人が答える。
 「原発がきて、やっとのことで、都市と同格になった気もする」
 それぞれ固有の事情もあるにせよ、フクシマと若狭は深いところでつながっている。フクシマを知ることは、若狭を知り、日本を知ることだ。フクシマは「他者」ではなく「私たち」であることを本書は改めて気づかせてくれる。
 幸福感——。水上勉は先のエッセーにこうつづる。
 「都市生活者の二男三男よ。長男の国、辺境の寒村は、放射能まみれになっても、きみたちが、健康で、優雅な文明生活を味わえて、せめて、二DKのマンションでくらせるように、人のいやがる原発を抱えてがんばっているのだ、という声を、私は若狭の地平からきく思いがする」
 評・上丸洋一(本社編集委員)
     *
 青土社・2310円/かいぬま・ひろし 84年福島県いわき市生まれ。東大大学院の博士課程に在籍。専攻は社会学。

2018年6月8日金曜日

刑務所図書館の人びと―ハーバードを出て司書になった男の日記 [著]アヴィ・スタインバーグ

■体験談がやがて文学的世界へ

 1分間の話を10分間に延ばして話すには天賦の才が必要だ。10分間を1分に縮めるのも才覚が必要だが、10分間の話を10分間で話すのは単なる凡俗の徒である。これが本書を読んだ率直な感想だ。
 どういう意味か。米国・ボストンの刑務所図書館で司書を務めた名門大学出身の青年の体験談、それが1分間の内容である。しかし、受刑者からブッキー(本好き)と呼ばれたこの司書が刑務所内で見たアメリカ社会の実像、受刑者たちの人生模様、そこに著者の人生をからませて感性豊かに、ある空間が描かれる。10分間に延ばした量と質が文学作品のレベルなのである。
 著者には社会から切り離された受刑者にとって書物は更生に役立つとの思いがあったようだが、しだいに受刑者たちの人生観やその軌跡に関心を深めていく。例えば女性受刑者が、幼児期に捨てた息子が長じて同じ刑務所にいるのを知り、母親としての愛情に目覚める。著者は必死にその姿を支え続ける。しかし、出所後、彼女は薬物服用で死亡。息子に宛てた手紙と受刑者が描いてくれた似顔絵も捨ててあった。この女性にユダヤ人家族の自らの祖母のある時代の苦悩を重ねたりする。
 刑務所内で自作の詩を売るC・Cという受刑者。その才能に著者は惹(ひ)かれるが、犯した罪(強姦〈ごうかん〉・誘拐など)を知ってたじろぐ。その複雑な心情も正直に描かれている。
 意図的であろうが、著者は刑務所内での表現手段を「泣く」「叫ぶ」などという語で語っている。人間の感情は極めて原始的であり、それを書物の持つ知性が補っていくといいたいのだろう。そのことに気づくと本書の冒頭の一節「受刑者の中で、いちばん司書に向いているのが風俗の男(ピンプ)」、つまり図書館を最も愛するのはこのタイプだというのは、「愛」を歪(ゆが)めた受刑者への著者(知性)の側からの怒りだと分かる。そこに著者の無念がある。
 評・保阪正康(ノンフィクション作家)
     *
 金原瑞人・野沢佳織訳、柏書房・2625円/Avi Steinberg アメリカの新聞、雑誌などに多数寄稿。

2018年6月7日木曜日

いま、憲法は「時代遅れ」か―〈主権〉と〈人権〉のための弁明(アポロギア) [著]樋口陽一

■「国家権力縛る」基本は今日的

 本書はつぎのエピソードから始まっている。伊藤博文は明治の憲法制定に関する会議で、「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」と発言した。この事実を、著者が法律関係者の多い聴衆に話したとき、衝撃をもって受けとめられた、という。
 立憲主義の基本は、憲法は、国民が国家権力を縛るものだという考えにある。それは、別の観点からいうと、国家は本性的に、専制的であり侵略的であるという認識にもとづいている。だから、憲法によって国家を縛らなければならない。明治時代に日本帝国を設計した政治家にとっても、それは自明であった。しかし、今や、法律関係者の間でさえ、この基本が忘れられている。
 たとえば、憲法9条にかんする議論がそうである。改憲論者はもっぱら国家の権利を論じる。そして、日本の憲法は異常だという。しかし、9条の趣旨は、伊藤博文の言葉でいえば、「国家の(戦争する)権利を制限し、(平和に暮らす)国民の権利を保全することにある」。確かに、立憲主義が始まった時期に、「戦争の放棄」という観念はなかった。しかし、それは、立憲主義の基本から見ると、正当かつ当然の発展である。
 憲法は国民が国家権力を縛るものだ、という観点から見ると、現行憲法は「時代遅れ」であるどころか、きわめて今日的である。憲法25条1項には、こうある。《すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する》。たとえば、震災でホームレスとなり職を失った人々を放置するのは、憲法に反する。また、放射性物質の飛散によって人々の生存を脅かすのは、憲法違反であり、犯罪である。本書は、多くの事柄に関して、憲法からそれを見るとどうなるかを、教えてくれる。憲法全文も付載された、最良の入門書である。
 評・柄谷行人(評論家)
     *
 平凡社・1575円/ひぐち・よういち 34年生まれ。国際憲法学会名誉会長。『近代国民国家の憲法構造』など。

2018年6月6日水曜日

気候工学入門―新たな温暖化対策ジオエンジニアリング [著]杉山昌広

■現実味増す「気温下げる」技術

 現在なお大問題の原子力が推進されるにあたり、地球温暖化の緩和という名目も大きかったのはご存じのとおり。目下はさほど話題にならないものの、今後温暖化が一部の地域に何らかのコストをもたらすのも確実だし、その対策は必須だろう。
 これまでまじめに検討されていたのは、莫大(ばくだい)な費用で効果はほとんどなく、実現はおろか国際的な合意すら絶望的な炭素排出削減、温暖化の影響に個別に対応する適応策、再生可能エネルギーの研究といったところだ。でも、気温上昇が問題なら、それを直接下げたらどうだろう?
 たとえば、空中に光る微粒子をまいて、太陽光を反射させ地球に入る熱を減らしたら? プランクトンを増やして大気中から二酸化炭素を除去したら?
 これまで、こうしたジオエンジニアリングと呼ばれる技術はまともに考慮もされなかった。でもそれが徐々に現実味を増し、いまや真剣な検討の俎上(そじょう)にのりはじめている。本書はそうした各種の技術を紹介しつつ、その費用や社会的な枠組みまで簡潔にまとめ、素人でも十分に読める入門書なのにかなり包括的だ。
 個人的には微粒子散布や雲の増加が意外とお安いのにびっくり。とはいえ、その運用は悩むところ。いまの日本では、巨大技術とその運用に対する不信は大きい。本書はそうした懸念や批判論も手際よく紹介している。
 だが、もし温暖化が本当に重要な問題であるなら、使える手段は何であれ検討くらいはしておきたい。本書は、決してジオエンジニアリング万歳の本ではない。だが今後、こうした技術の重要性は確実に増す。温暖化問題に関心のある方はご一読を。有効性の疑わしい炭素排出削減に飛びつくより、社会としていろいろな選択肢を踏まえたうえでの合理的な選択がしやすくなるはずなのだから。
 評・山形浩生(評論家)
     *
 日刊工業新聞社・2310円/すぎやま・まさひろ 78年生まれ。電力中央研究所社会経済研究所主任研究員。

2018年6月5日火曜日

風評被害―そのメカニズムを考える [著]関谷直也

■避けがたさ前提、行動のヒント

 「風評被害」という言葉があいまいなのは、厳密な定義なしに、1990年代末からマスコミ用語として使われ始めたからだという。
 著者は、人々が事件や災害などの報道をきっかけに、消費や観光などを根拠なく危険視してやめることによる経済被害、と定義する。
 その本質は、絶対的な安全を求める安全社会、代替物が容易に手に入る高度流通社会、そして情報過多社会を背景にした「疑心暗鬼の連鎖」だという。とすれば、避けることは根本的に困難という前提で対策を立てるしかない。
 そのために大切なのは、メカニズムを理解することだ。消費者やメディアだけでなく、行政や流通などの関連業者の責任も、実は重い。
 簡単には解が見当たらない問題だが、この時期に本書を問うたのは、社会学者の心意気だろう。加害側に回りたくない人に一読を勧めたい。
 今起きていることをどう考え、どう行動すべきか、ヒントを与えてくれる。
     ◇
光文社新書・777円

2018年6月4日月曜日

しあわせ節電 [著]鈴木孝夫

■嫌々ではなく一種の趣味として

 世を挙げて「節電」の大合唱だが、そんななか、言語学者の出した節電の本である。タイトルも可愛らしくて、「おや」と思って手に取った。
 「戦前の暮らしを劇的に変化させないで今までやってきました」とあるが、道に落ちている釘や空き瓶は必ず拾い、ビスケットの缶も叩(たた)いて延ばして再利用、と節約ぶりは徹底している。捨てられていた電化製品は修理して留学生にあげ、腕時計は昭和26年にもらった自動巻きをいまも使っている。新製品を開発して売ることを目指す資本主義経済とは相いれないだろうが、見えを張らず、古いモノを大切にし、嫌々ではなく一種の趣味として節約するのが「しあわせ節電」の秘訣(ひけつ)らしい。
 著者は原発に反対なだけでなく、化石燃料を使う火力発電にも反対している。無駄遣いを排除するライフスタイルの話はやがて文明論、国家論にまで発展していく。そのすべてに同意できるわけではないが、地球環境に対する危機感は共有したい。
 松永美穂(早稲田大学教授)
     *
 文芸春秋・1200円

2018年6月3日日曜日

困ってるひと [著]大野更紗

■制度の谷間の難病、挫けそうでも笑う

 ミャンマーの難民問題を研究する24歳の女性が、突然、難病にかかった。病名は「筋膜炎脂肪織炎症候群」。免疫システムが正常に制御されず、全身に炎症がおこる。何十種類もの薬を服用しつつ、熱、倦怠(けんたい)感、痛みに苦しむ毎日が続く。
 本書は、発病からの苦闘を描いたユーモアたっぷりの闘病ノンフィクションだ。ネット連載時から話題になり、ツイッター上では絶賛の声があふれた。
 最初は、どこの病院に行っても、何の病気なのかが分からない。原因も不明。いくつかの病院を転々とし、自力でたどり着いた大学病院でようやく入院。本格的な治療がスタートする。
 そこで著者の前に立ちはだかったのが、日本の複雑怪奇な社会保障制度だ。それはまるで「モンスター」。ただでさえフラフラなのに、山のような書類を提出しなければならない。しかも、難病を抱える患者にとっては余りにも過酷な制度で、「大我慢大会」を強いられる。病院は「診療報酬」の問題で、ベッド稼働率を上げなければならない。長期入院は敬遠される。
 著者は、次第に友人たちに頼るようになっていった。「何でもするよ」と言ってくれる友人に、買い物や手続きの代行などを頼んだ。次第にそれは「当たり前」になっていき、友人たちは疲弊していった。
 著者は、そんな事実を友人から突き付けられる。そして、思った。これは自分が研究してきた難民への援助の矛盾にぴったり当てはまるのではないか、と。
 行政によるセーフティーネットには、すでに大きな穴があいている。「難病患者は、『制度の谷間』に落ち込む、福祉から見捨てられた存在」になっている。それを患者個人の「根性」や家族・友人の支援だけで乗り切ることは不可能だ。自助と共助だけでは、みんなが疲弊する。やはり国家が再配分を行うことで、生存権を保障することが必要不可欠である。その上ではじめて自助や共助が意味をもつ。著者は言う。「その国の『本質』というのは、弱者の姿にあらわれる」
 問題は、患者と医者の関係にも及ぶ。人は他者のことをすべて「わかる」ことなんてできない。医者も患者の不安や思いのすべてを把握しきることはできない。医者だって人間だ。だから、医者の何げない一言や行為が、患者を絶望の淵(ふち)に追いやることがある。著者は、その瞬間を丁寧に描く。
 社会制度とのバトル、医者とのバトル、そして自分とのバトル。著者は、挫(くじ)けそうになりながらも、なんとか前に進む。いつもユーモアと知性を忘れずに。
 とにかく読んでほしい。これほど読みやすく、心が震えるノンフィクションはめったにない。笑顔と涙が同時にこぼれる傑作だ。

    ◇

 おおの・さらさ 84年生まれ。上智大学大学院(休学中)に進学した08年、難病の筋膜炎脂肪織炎症候群と皮膚筋炎を発病した。現在は退院して都内で生活している。

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墓のない女 [著]アシア・ジェバール [訳]持田明子

 アルジェリアがフランスから1962年、独立を果たすまでには激しい闘いがあった。「ゲリラの母」と呼ばれたアルジェリア女性ズリハの生涯を、70年代半ばに女性の映像作家がたどる設定。裕福な農家に生まれて開明的な父のもとで教育を受け、ベールなしで街を歩く強い性格。3度の結婚で4人の子...

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